俺が中学を卒業し、本格的に修行を始めた頃。
親方の補助として少し離れた山の頂上にある湖の畔に立つ社の修繕に出かけた。
湖の周りには温泉も有り、俺達は温泉宿に泊まっての仕事となった。
そのお社は湖に突き出した小さな岬の突端にあり、
社といっても小さなものだったが、妙に厳粛な雰囲気を漂わせていた。
見積もりと計画は親方が予めして有ったので、
親方の指示に従いながら初日の準備作業は順調に進んでいった。
二日目の朝、親方と二人で作業に掛かろうとすると、
お社からちょっと離れた茂みに小さな祠が有るのを見つけた。
ずっとほったらかしの様で腐りかけ、朽ち果てている。
祠の中には石で出来た小さな龍の像が収められていた。
俺は親方に報告し、どうしましょうかと尋ねた。
「祠の事は仕事で頼まれてねぇな。○○、おめぇはどうしたいいんだ?」
「このままじゃ、龍神様が可哀想ですから、修繕したいと思います」
「じゃあ、手が空いたときにおめぇが修繕しろ。いいか?」
「はい!」
それから俺は、朝食前、昼休み、夕食後の時間を使って祠の修理に励んだ。
修繕に掛かってから一週間ほど経った朝、
起きてみるとしとしとと霙混じりの雨が落ちてきている。
食堂の天気予報では一日中振るとの事なので、
親方は俺に様子だけ見てくるように指示して温泉に向かった。
俺はカッパを羽織るとお使い用に持って来ているスーパーカブに跨り、
社の様子を見に行った。
鳥居の前にカブを止め、お社へと歩き出す。
お社の前に辿り着き、手を合わせ祈ってから修復中の裏手へ廻る。
お社の裏手は直ぐに湖になっていて、結構高い崖である。
また、建物と崖までの距離は1メートルも無い。
気をつけながら進んでいたが、足場が音も無く突然崩れた。
咄嗟に飛びのいたが、その足場もやはりもろく崩れ
俺は嫌な落下感を一瞬味わった後水中に落ち込んだ。
季節は初春、山頂の湖の水温はまだ数度しかない。
必死で水面に出ようとした時、両足がこむら返りを起こした。
着ている服は水を吸い、重くなっている。
必死で水を掻き分けようとしていると、右肩までも攣ってしまった。
左手一本でもがいても体は中々浮かびはしない。
落ちた時にちゃんと呼吸が出来ていないので酸素が足りなくなっていく。
鼻と口から冷たい湖水が流れ込んできて、本当にヤバいと感じた時、
なにか白く光る物が近づいてくるのが見えた。
そして、凄いスピードで近づいてきたそれが巨大な龍だと気付いた時、
俺の意識は白い闇に溶けていった。
暖かい感触を唇に感じ、ふと目を開ける。
次の瞬間、猛烈な咳と共に鼻と喉を熱い水が駆け上がってきた。
がはごほげへぐはっ!
息が出来ず、俺は盛大に口と鼻から水を噴出した。
ひとしきり咽返り、ようやく呼吸する事が出来るようになったので
涙と鼻水にまみれた顔を上げると、そこには白い着物を着た
美しい女性が無表情に立っていた。
俺はその美しさに驚くと共に、女性の長い白髪に釘付けになった。
よく見ると、髪だけでなく睫毛も真っ白だ。
唇だけ、紅を差している様で鮮やかに紅い。
驚いたように見詰める俺に、女性が
「大丈夫か?」
と男の様な口調で尋ねてきた。
「・・・あ、はい。大丈夫です。」
「・・・そうか」
彼女はつ、と振り向くとそのまま去ろうとした。
「貴女が助けてくれたんですか?」
その後姿に声を掛ける。
彼女は顔だけ振り向くと、
「気にするな。祠の礼だ」
とだけ言い、かき消すように居なくなってしまった。
しばらく呆然としていると、親方と旅館の番頭さんが俺を見つけ、
大声を上げながら掛けて来た。
「○○、大丈夫か!?」
親方が叫ぶ。
俺が旅館を出たのは早朝だが、既に時間は昼頃となっていた。
親方が遅い俺を心配して社に行くと、裏手に崩れた跡が有り、
俺の手袋が落ちていたから湖に落ちた事を知り地元の青年団に
協力してもらって探していたと。
そして、俺が居たのは社の対岸だった。
俺が女性の事を話すと、番頭さんや青年団の人は幻でも見たんだろうと
笑って取り合わなかった。
しかし、親方がニヤリとしながら手拭を差し出し、
「口から水を吸い出してもらったんだぁな?拭いとけよ」
と言うので驚いて口を拭うと、手拭には鮮やかな紅が付いて来た。
「オオカミ様と良い、龍神様と良い、えらく神様に気に入られるヤツだな、
おめぇは」
言いながらがははと笑う親方。
俺はかっと頬が熱くなるのを感じ、
手拭をほっかむりにして紅く染まっただろう頬を辛うじて隠した。
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