「はやく来てくださいね」
優子さんは会場へと戻っていった。
開始から既に数十分は経過している。
そろそろ出迎えを宿の方に任せて宴席に行っても失礼にはならないだろうと思う。
しかし、なぜか宴席に行けない。
なぜだ?そう、俺は怖いのだ。
おそらく宴席に来ている「オオカミ様」は晦日にお社で会った、あの少女だろう。
彼女はオオカミ様に間違いない。俺は既に確信を持っている。
しかし、あの時彼女は俺のことを覚えていなかった。
どのような形でオオカミ様が現世に顕在したのかは想像も出来ないが、俺の事を覚えていないという事が衝撃だった。
オオカミ様が俺の事を覚えていないという事実。
この状況を冷静に分析すれば、彼女にとって俺は見知らぬ中年男性でしかない。
この宴席で出逢えたという事は、縁がまったく無いわけではないだろうが
現実的にこれからの状況を考えると目の前が真っ暗になってくる。
こんな事ならば、あの頃のまま、精神で触れ合えたままでいた方が
良かったのではないか?
生まれてからこんなに不安に、絶望に苛まれた事は無いほど俺は憔悴し切っていた。
「○○、様...?」
オオカミ様の声が聞こえる。どうやら、憔悴の余り幻聴まで聞こえてきたようだ。
「あの、○○様...?」
・・・幻聴、では無い!ばっと振り返ると、そこにはオオカミ様の姿があった。
「きゃっ!?」
すごい勢いで振り返った俺に驚いたようで、びくっと身をかわす彼女。
そこには、晦日の夜に出逢った、
そして俺の記憶の中に住み続けている姿がハッキリと容を取っていた。
「貴女は...」俺が呟く。
「あ、はじめまして、ですよね。
でも、大晦日にオオカミ様のお社でお逢いしましたね。
私は、榊 沙織と申します。」
深々と頭を下げる彼女。艶やかな黒髪がさらっと流れる。
初めて逢った、あの時の様に。
「昔、○○様に可愛がって頂いた姉、詩織の妹です。
と言っても私は養女ですし、詩織姉様とは現世では逢えなかったけれど」
彼女は滔々と語りだした。
伊勢で捨てられていた事から、現在に至るまでの事を。
「でも、私は捨てられたことに感謝してるんです。
そのおかげで父様や母様の子になれ、お祖父様やお祖母様にも逢えました。 それに、詩織姉様にも...○○様、どうなさったんですか?」
彼女が心配そうに俺の顔を覗き込む。
俺はいつの間にか、涙を流していた。嬉しさによって。
「いえ、なんでも有りません。
貴女が幸せな人生を歩んできたのが感じられて、嬉しかったんです」
俺の答えに彼女はちょっと驚き、頬を染めながらはにかんだ様に俯いた。
「・・・お社でお逢いしたとき、なぜか直ぐに○○様、って解ったんです。
貴方の事は、父様や母様、詩織姉様から聞いていたからかも知れませんが、それだけじゃなく、・・・なんていうのかな、
パッと閃いたんです貴方が、○○様だって」
そこで俺は気付いた。詩織姉様から聞いた、とは...?
「あ、ごめんなさい。変ですよね...
でも、私、良く詩織姉様の夢を見るんです。
何か悩んだり、困ったりすると詩織姉様が夢に出てきて
助けてくれるんです。
○○様の事もいつも聞いてました。
詩織姉様は○○様のお嫁さんにしてもらうんだって言ってました。
でも、沙織ちゃんになら○○様を譲っても良いよって言うんです...」
ココまで言い、彼女はハッとした様に顔を真っ赤に染めて
「ご、ごめんなさい!変な事を言って!
あ、そういえば私○○様をお呼びするように言われてたんです。
親方のおじ様が早く来い、って仰ってました。さ、行きましょう!」
彼女は俺の手を取ると、会場へと歩き出した。
その手は華奢で、心地よく冷たかった。
会場は相当な盛り上がりだった。
沙織と会場に入った俺は直ぐに親方に呼ばれ、しばらくは親方とお客様の相手をする事になった。
そのうち榊さん夫妻も近くに来て、想い出話になっていった。
沙織はちょっと離れたところで若い弟子達と談笑していたが、榊さんに呼ばれてこちらにやってきた。
想い出話が続くうち、俺は沙織がしている髪飾りについて尋ねてみた。
「沙織は銀の髪飾りを二つ持っているのです。」
榊さんの奥様が答える。
「一つはおかみさんの実家の玄関に沙織が置かれていた時、
最初から握り締めていました。
もう一つは三歳の時にお伊勢さんにお参りに行った際、
奥の宮で不思議な少年が沙織にくれたのです。」
その少年は神官服を着た玲瓏な美少年で、沙織に近づいて握らせてくれたと。
ご両親もまったく不審には感じず、ありがたく受け取ったと言う。
「今着けているのは、三歳の時にもらったものです。」
沙織は髪飾りを外すと、俺に渡してくれた。
それは、間違いなく俺があの時、あの少年に預けたものだった。
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