部屋に入り、灯りを点ける。
缶ビールを取り出し、口を開けて晃に渡す。
しかし、晃は今夜は帰るからと辞退した。
「で、相談ってのはなんだい?」
缶ビールをコップに注ぎながら問うと、晃が話し出した。
「実は、優子さんのことなんです...」
優子さんは前回の騒動以来、なんだかんだとウチの事務所に顔を出し、
時々会計や帳簿つけの手伝いをしてくれるようになった。
また、親方やおかみさんもシャキシャキした気持ちの良い性格の優子さんを
とても気に入っており、手伝ってくれた時にはバイト代も
ちゃんと払いなんだったら正式に就職してほしいとまで言っていた。
料理も上手く、よく気が利くので弟子達からも姉貴分として人気が高い。
「で、優子さんの素晴らしさは良く解ったし俺も知ってるが、
結局何が言いたいんだ?」
優子さんの事を誉めるのは良いのだが、
ちっとも相談事に入らない晃に業を煮やした俺は先を促した。
「・・・兄さんは、優子さんの事をどう想ってるんですか?」
突然の問いに、俺は口に含んだビールを噴出してしまった。
げほごほとむせる俺に台拭きを渡しながら、晃はこちらを見ている。
俺は平静を装いながら、逆に聞き返した。
「なぜ、そんな事を聞くんだ?お前には関係ないだろう」
少しの間を置き、晃が答えた。
「俺は...俺が、優子さんを好きだからです」
言われてみれば、心当たりが無い事は無かった。
優子さんが来ている時の晃の態度や、俺と優子さんが出かける時に何度か見せた
ちょっと不貞腐れてるというか、拗ねているような態度。
そうか、こいつ...
その時、先ほどまで一緒だった優子さんの姿がフラッシュバックした。
くちづけた時の柔らかな唇、抱き締めた時の感触と髪の甘い香りが鮮明に甦り、
俺は気恥ずかしさと自分への苛立ちからつい語気を強めてしまった。
「お前が優子さんを好きだと言うのは解った。
だが、それを俺に伝えてどうしようと言うんだ?
もし俺が優子さんと付き合っているなら、別れてくれとでも言うのか?
それとも、そうだったら諦めようとでも思ってるのか?
それよりも、優子さんにお前の気持ちを伝えるのが先だろうが!」
晃はキッと俺を睨み、答えた。
「優子さんには気持ちを伝えました!
そして、答えは貰いました...優子さんは兄さんが好きなんです...
優子さんは、泣きながら俺に謝りました。
どうしようもない位、兄さんが抄きなんだと...
兄さんが想っているのがオオカミ様だと、とても敵わない方だと解ってるけど、
でも死にそうな位好きなんだと...」
俺は返す言葉もなく晃をみつめた。
「だから、兄さん!お願いします!優子さんの...優子さんの気持ちに...」
最後は言葉にならない。晃は泣いていた。
その後、俺も晃も無言のまま、晃は帰って行った。
俺は今夜の自分の行動を思い起こし、自分の迂闊さを責めながら風呂に入り、
寝床へと入った。
電気を消し、目を瞑るがまったく眠れない。
優子さんを愛おしく想ったのは勘違いなんかじゃない。
しかし、男女としての愛情であったのかは自信が無かった...。
結局眠れぬまま、窓の外が白んできた。
時間を見るとまだ午前五時前だ。
俺は起き出し、着替えるとヘルメットとグローブを掴んで外に出た。
バイクにキーを差込み、オオカミ様の社へと向かい薄暗い闇の中に滑り込んだ。
林道を走り、オオカミ様の階段下へ辿り着く。
その時、階段の上から誰かが降りてくるのが見えた。
こんな時間に、一体...?俺は不審に思いながらバイクから降り、
人影に顔を向けるがまだ暗くて良く解らない。
しかし、靡く長い髪が認められた。
まさか...オオカミ様!?心臓がドクンと脈打つ。
俺は、逸る気持ちを抑えながら階段を上り始めた。
ハッキリとその顔が見えたとき、俺の全身に冷や汗が噴出した。
あれは...お狐様!
つい数時間前に見た、妖艶な姿がそこに在った。
足を止めた俺の所まで音もなく彼女が降りてくる。
そして、俺の横でピタリと止まった。
「久しぶり、ね。○○さん。逢いたかったわ...」
俺の目は彼女の切れ長の瞳に吸い付いたまま離せない。
しかし、やはりかつて感じた様な険は無い。
「ふふ、でもさっき逢ったばかりよね。貴方は優子と接吻してたけど」
紅い唇の端を上げ、妖艶に微笑う彼女。脳髄まで蕩かされそうな艶っぽさだ。
「優子は、良い娘よ。泣かしたりしないでね」
彼女は突然、固まったままの俺の頬に接吻した。
そして、そのまま階段を降り始めた。
「貴女は、誰なんですか!優子さんの、何なんですか!?」
俺の口から咄嗟に一体何を聞きたいのか解らない様な言葉が出た。
彼女は、少しだけ振り返りながら小声で答えた。
「私と優子は、***だから...」
「え・・・?」
肝心な所が良く聞こえず、聞き返す俺に目も呉れず
彼女はふっと姿を消してしまった。
残された俺は呆然と立ち尽くしていたが、突然響き出した笛の音で我に返った。
振り返ると、階段の上にあの少年が立ち、笛を吹いていた。
少しの間、美しく響く笛の音に聞惚れていたがはっと我に返り、
階段上の少年を見上げる。
俺を見つめながら吹いているようだが、薄暗さで表情は確認できない。
俺は意を決し、階段を上り始めた。
一段一段、しっかりと踏みしめながら上ってゆく。
少年の表情が確認できそうな位置まで来た途端、少年の姿が掻き消えた。
しかし、笛の音はまだ響いている。
階段を上り切ると、少年が社の前で笛を吹いている。
俺は一礼すると、鳥居を潜り社へと向かおうとした。
鳥居を潜ろうとした瞬間、俺の体はピタッと動かなくなった。
そして、俺の目の前に少年の顔が有った。
オオカミ様と同じ、宇宙の深遠を思わせる漆黒の瞳に俺の目は奪われた。
息が掛かりそうなほどの距離で俺は少年と対峙している。
どれほどの時間が過ぎただろうか、少年の朗々とした声が響いた。
「迷いか、惑いか」
俺は意味が解らず、呆気に取られた。少年は繰り返した。
「迷いか、惑いか」
その時、いつか見た夢が甦った。
少年から手渡された髪飾りを抱きながら涙を流していたオオカミ様の姿。
そして、あの時の言葉。
「あのひとは...強い人です。迷う事はあれど、惑う事はありません」
全てが溶け去るようだった。
惑いも、迷いも。
俺は答えた。
「迷いも惑いも、今は無し」
少年の瞳に驚きの色が浮かんだようだった。
そして、オオカミ様とよく似た穏やかな微笑を浮かべ、すっと消えてしまった。
そのままへたり込み、俺は眠ってしまった。
目覚ましが鳴っている。俺はガバッと身を起こした。
辺りを見回すと、自分の部屋である。
「!?」
まるで狐に摘まれた様で、何がなんだか解らない。
俺はバイクでオオカミ様の社に行った筈だったが...
時間は六時半。いつも起きる時間だ。
「夢、だったのか...?」
まどろみながら見た、夢...?
昨夜からの出来事と、自分の迷いが見させた夢だったのか...?
釈然としないまま身支度をし、外に出る。
車に向かいながらバイクの脇を抜ける途中、マフラーに手が触れた。
熱い感触に驚き手を戻す。エンジンにも手を触れてみると、
つい先ほどまで走っていたように熱を持っていた。
昼休み、優子さんの勤務先に電話をする。
優子さんに今夜時間を取ってもらう様お願いすると、
電話の向こうで嬉しそうに了解してくれた。
今夜、彼女の喜びを壊す事になると思うと気が重かったが、
このままでは彼女を更に苦しめてしまうと自分を叱咤した。
現場を早めに切り上げ、事務所に帰る。
そこには既に優子さんが到着し、おかみさんと談笑していた。
彼女の輝く様な笑顔は、昨夜の事が有るからだろう。
俺を見つけると嬉しそうに駆け寄って来た。
「お疲れ様でした!」
無邪気な笑顔を見ていると胸が苦しい。
俺達が出掛ける寸前に晃が帰ってきた。
「デートですか。行ってらっしゃい」
晃は俺達を寂しそうに、しかし穏やかな微笑で見送った。
食事中も楽しそうに話をする彼女。
しかし、途中で俺の様子に気付き、心配そうに聞いてきた。
「どうしたんですか?具合でも悪いの?」
なんでもないよ、と答える俺。
そして食事も終わり、彼女を送る為に車を走らせていると優子さんが頬を染め、
はにかむ様にして微笑み、口を開いた。
「今夜は帰らないかも、って両親には言って来ました...
○○さん、今夜は、私...」
俺は申し訳無さで押し潰されそうだった。
ポケットの中に入っているお守りを握り締め、俺は口を開いた。
「・・・優子さん、ごめん。俺は、貴女の気持ちに応えられない...」
彼女は、微笑んだまま凝固した。
空気さえも固まった様な車内にどれほどの時間が流れただろうか。
「・・・え?・・・ごめんなさい、意味が・・・解らない・・・よ?」
本当に混乱している。可愛らしい微笑を張り付かせたまま。
「俺は、貴女が好きだ。でも、それは親友として、
妹の様な存在としてなんだ。男女の愛情ではないんだ」
俺の言葉は彼女の心を貫き、引き裂いた。
「・・・なんで・・・だって、昨夜・・・そんなの、ないよ・・・・・・」
彼女の表情から微笑が消える。
彼女は驚きと悲しみの表情を張り付かせたまま、黙り込んでしまった。
五分後、彼女の家の玄関に着く。
黙ったまま車から降り、ふら付きながら玄関へと向かう彼女を見送り、俺は車を出した。
【不思議】妖狐哀歌 3/3【宮大工シリーズ15】 へ続く
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