俺が到着した時、ちょうど娘さんが出勤の為に玄関から出てきた所だった。
まあ、と驚く彼女に昨晩のお礼を述べ、出勤するのを見送る。
彼女は家の中へ俺の来訪を告げると名残惜しそうに出勤していった。
「やあ、おはよう。今朝も早いね」
神主さんが玄関に顔を出した。
挨拶を済まし、中へとお邪魔する。
奥さんが出してくれたお茶を頂きながらお社の事について少し相談した後、
俺は意を決して昨晩のことを話した。
「そんなバカな。ウチには一人しか娘は居ないよ。何かの間違いじゃ...」
「いえ、確かにこちらへお送りして、玄関を開けて入っていく所まで
確認しました。」
「その時間はもう家族全員眠っていたはずだ。誰も家に入ってきた跡など無い...」
俺は一つ、思い当たる事が有る旨を伝え、電話をお借りして事務所に連絡した。
おかみさんにまだ現場に向かっていないはずの弟弟子の一人を呼んで貰う。
ヤツは、例の一件でお稲荷様に取り憑かれた男だ。
イヤな事を思い出させてすまない、と断った上であの時夢の中で
オオカミ様に踏み付けられていた女の人相を聞いてみた。
気の強そうな切れ長の瞳、カタチの良い鼻、少し厚い紅い唇、きゅっと尖った顎。
やはり、間違いない。昨晩拾ったのは、おそらく...
「もしかして、今度は腹いせに○○さんに祟る積りじゃあないか...?」
神主さんが不安気に呟く。
確かに、今現在オオカミ様は留守だ。
しかし、あの少年も少なくとも敵では無い。
それに、俺には伊勢神宮で手に入れた確信が有る。
「大丈夫です。ご心配には及びません。」
俺が力強く答えると、神主さんは安堵の表情となった。
「そうだな、キミがそう言うなら大丈夫だな...ところで、
突然話が変わるが○○さんにはお付き合いしている女性は居るのかな?」
本当に突然の問いに俺はビックリしたが、ハッキリと答えた。
「はい、お付き合いしているのでは有りませんが強く想っている女性が居ります。」
「ふーむ。そうか...いや、ヘンな事を聞いた。忘れてください。」
俺は神主さん宅を辞すと、これからやるべき事を整理しながら事務所へと向かった。
翌朝一番でオオカミ様の社に酒を持ってお礼に行く。
鳥居を潜り、お社に酒を奉じてお祈りをする。
そしてそのまま稲荷様の社へ修繕に向かった。
途中で弟弟子達と合流し、お社で荷物を下ろす。
弟弟子達は荷物を下ろすと自分たちの割り当てられている現場へと散っていく。
社の中へ入り、図面を見ながら大まかなイメージを創り、早速仕事へ掛かった。
俺は仕事に夢中になると時間のたつのを忘れる事が多く、
また集中力を途切れさせたくないので一人で行う現場の時には昼飯を抜くか、
夕方近くなって一段落着いてから食べる事が多い。
この日も仕事に興が乗って、気がつけばもう夕方の五時近くなり
夕焼けが見え始めていた。
ふう、と一息つくと腹がぐうと鳴る。
この辺りで切り上げて事務所に戻るか、それとも弁当を食べてから
もう一息頑張るか迷っていると突然社の扉が開いた。
「○○さん、ご苦労様」
入って来たのは例の美女。
妖艶な笑みを浮かべながら俺の左横へ立つと甘ったるい体臭が鼻を突く。
俺はオオカミ様のお守りが胸に有る事を確認たが、
確かに入れておいたはずのお守りがなくなっている。
狼狽してしまった事を隠すように平静を装いながら俺は答えた。
「こんにちは。どうしました?」
「うふ、貴方の仕事振りを見てみたくて。お邪魔だったかしら?」
小首を傾げながら聞く彼女に迷惑だと言える男はほとんど居ないだろう。
「いいえ、散らかっていますが、宜しければ見ていってください。」
女は社の中を見廻すと、
「まあ...とても綺麗になってるのね。いいわぁ...」
本当に嬉しそうに満面の笑みを浮かべている。
俺が道具を片付け、立ち上がった瞬間に女が後ろから抱き付いてきた。
「貴方って、素敵な方ね...」
背中に豊かな胸が押し付けられる感触が広がる。
頭の中が熱くなり、欲望が湧き上ってくる。
思考が停止し、振り向き様に女を抱き締めてしまう。
「優しく、ね・・・?」
勝ち誇ったような笑みを浮かべた女の顔が目の前にある。
目を瞑り、紅い唇を近付けてくる。
俺の理性は跡形も無く崩れようとしていた。
次の瞬間、
俺の脳裏に髪飾りを抱き締めながら涙を溢れさせていたオオカミ様の顔が甦った。
熱くなった脳髄がすーっと冷え、理性があっという間に戻ってくる。
俺は女の肩を掴むと、体から強引に引き剥がした。
「ーっ!?」
彼女は目を開け、呆けたようにポカンとした後、夜叉の様な顔となった。
「私に恥を掻かせるなんて...どういう積り...?」
切れ長の眼が夕日を受けて赤く光る。その迫力に、俺は竦んでしまった。
なんとか後ずさりしつつ扉へと近付く。
女の顔は、既に人のそれではない。
鼻が尖り、口からは尖った歯が覗き始めている。
「なぜ...?そんなに想える...?此処には居ない方を...人の癖に...」
ぶつぶつと呟きながら徐々に近付いてくる。
俺は本能から来る恐怖に慄きながらも、オオカミ様を想い祈り始めた。
今にも女が俺に向かって飛びかかろうとした瞬間、俺の真後ろから声が響いた。
「その辺になさいませんか?岩倉之眷属殿」
この声は、あの少年の声。
俺はふっと安堵し、そのまま意識が遠のいてしまった。
意識が戻った時、俺は布団の中で見覚えの無い天井を見上げていた。
ふと横を見ると、其処には神主さんの娘さんが座っていた。
「よかった...気が付いたのね...」
彼女は涙ぐんでいる。
彼女が呼ぶと、神主さんご夫婦と親方が部屋に入ってきた。
「俺は...一体どうしたんです?」
俺が呟くと親方が答えた。
「夜になってもおめぇが帰ってこないんで、
お社へ行ったら中でおめぇがオオカミ様のお守り握り締めてぶっ倒れてたんだ。
こりゃ以前と同じ事になっちまったかと救急車呼ぼうとしたら妙な子供が現れて、
○○様は寝かしておけば心配ないと言うので
とりあえず神主さん家にお邪魔したんだ。
一体何が有った?あの子供、ただもンじゃねえな?
あと、お社から泣きながら駆け出てきた女が居たが誰なんだ?」
矢継ぎ早に質問してくる親方に途惑いながら、俺は明日、オオカミ様の社へお礼に参らなければと考えていた。
そして、オオカミ様の社はおそらくあの少年が主となったのだ、と漠然と感じた。
【不思議】お稲荷様の善報【宮大工シリーズ11】 へ続く
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